プロフィール

福岡県宗像市在住のシンガーソングライター。14歳でエレキギターを購入し、友人とヘヴィメタルのコピーバンドを組む。大学ではオリジナル曲でライブ活動。卒業後はバンドを解散し、仕事に打ち込む。ギターには弦すら張っていなかったが、2024年末にバンド「トッポギ」に加入。13年ぶりのライブ出演が楽しすぎた。再び音楽魂に火が付き、2025年7月からソロ弾き語りでも活動開始。精力的にライブ活動中。
アーティスト名の由来
本名は陽平(ようへい)と言う。
ヤンピンというのは、陽平の中国語読み(ピンイン)である。
私は以前、中国は上海に住んでいたことがあり、その時は当然「Yáng Píng」と呼ばれていた。


日本に戻ってからも「ヤンピン」という呼び名が定着し、自分もその響きが気に入っていることから、アーティスト名も「ヤンピン」とした。
そのままカタカナでもよかったのだが、どうしても漢字を当てたいと思った。
「陽平」ではつまらないし、あまり本名を出したくなかったので(今めちゃめちゃ出してるけど)、同じ読み方(ピンイン)で別の漢字はないかと辞書を引いた。
そしてヒットしたのが「羊」である。

「羊ならグッズも作りやすいやん!」などという、あさましい下心が働いたのは言うまでもない。
というか、それ以外の理由はない。
後付けで、羊は奴隷の象徴でもあるから、「この支配からの卒業」的なことをコンセプトにしようかとも考えたが、そうしないで本当に良かったと思う。
でも羊グッズかわいいから! 好評だから!


ライブ会場ですべて無料で配っておりますので、ぜひもらいに来てください♪
経歴
Mステで生前の尾崎豊を見た記憶
1984年5月15日、母の故郷である宮崎県宮崎市で生まれた。
いわゆる里帰り出産であり、育ったのは福岡県春日市の県営日の出町団地である。
春日市立春日北小学校の校区だ。
※ばりばり個人情報出していきます(笑)。
母が市民オーケストラでバイオリンを弾いていた影響からか、幼少期から音楽を聴いたり見たりするのは好きだった。
今でも覚えているのは、ミュージックステーションを欠かさず見ていたこと。
生前の尾崎豊を見た覚えがある。
そしてその尾崎が1992年に亡くなった時、小学2年生だった私は、「このあいだテレビに出てた人だ」と驚いた記憶があるのだ。
しかし今調べてみると、尾崎のテレビ出演は1988年6月22日、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の一回限りらしい。
私が記憶しているのは、Mステでよくある特集映像の一つだったのかもしれない。
いずれにしても、音楽番組をビデオに録画するぐらい好きで見ていた。
小学生の頃にピアノを習っていたが⋯⋯
小学生の頃はピアノを習っていた。
が、音楽を聴くことは好きでも、弾くことはあまり好きじゃなかったらしい。
やらされ感もあったのだろう。
大して練習しないまま、2年ぐらいでやめた。
このことは後悔している。
ただ、そのわずか2年のおかげで、ピアノがまったく弾けないということもない。
ギターを始めて、バンドを組むと、「ピアノ最強やん」と気づかされる。
ピアノが弾きたくなって、Xの『Silent Jealousy』を練習したら、下手なりに弾けた。
今でも「練習すればキーボードやれる」と思っている(笑)。
中2でストラトキャスターを購入する

中学校は、福岡県で最も偏差値の高い学校に入学した。
久留米大学附設中学校である。
しかし、マグレで合格してしまったばっかりに、勉強にまったくついていけない。
成績は常に底辺であった。
「このままではいけない」
そんな焦りから、ギターを始めることにした。
なぜギターなのかって?(えっ、聞いてない?)
それは友人の影響である。
久留米への行き帰り、西鉄電車に揺られながら、私はウォークマンで音楽を聴いていた。
スピッツとか、globeとか、ミスチルとか、極めて健全な音楽である。
そのイヤホンを一方的に外し、自分のイヤホンを一方的に押し付けてきた奴がいた。
そいつのイヤホンから流れてきたのは、スラッシュメタルだった。
最初は騒音としか感じなかったが、さほど時間を要すことなく洗脳された。
この話は面白いけど長くなるので、また別で書こうと思う。
こういうわけで、中2の頃にはヘヴィメタルの一般教養を履修しており、インペリテリの影響でストラトキャスターを購入した。
ヘヴィメタルのコピーバンドを組む
私がギターを購入すると、他の友人たちが次々にベースとドラムを始めた。
そしてバンドになった。
演奏するのはもちろん、ヘヴィメタルである。
SLAYER、HELLOWEEN、MEGADETH等々。
ちなみにバンド名は、「PARAKEET(インコの意)」であった(笑)。
※インコ飼ってたんす。鳥好きなんす。今は鶏を飼ってます。

高校に上がると、バンド人口はどんどん増えていった。
音楽の幅も広がり、ジャンルを問わず何でも聴いた。
8トラックのMTRを購入し、なんとなく作曲を始めたのもこの頃である。
なんとなく「音楽で生きていけたらなー」とか思っていた。
が、なんとなく流されて大学へ進学した。
オリジナル曲でライブ活動を始める
底辺の成績でも横浜国立大学に入れるのが、久留米附設のすごいところである。
「横国でいいん? 附設行った意味ねー」とか言う奴がいたけど知らん。
私にとっては附設に行った意味など最初からない。
さて、大学では絶対に軽音楽部に入ろうと決めていた。
だが、私が入ったサークルは、民謡研究会合唱団だった。
理由はただ、飲み会が楽しかったからだ(笑)。
そしてそのサークルを1年で辞めた。
この頃から薄々感じていたことだが、私は組織に向いていない。
決してサークルが嫌になったわけではないが、一人で勝手にキツくなってしまった。
キツいって言えばいいのに、相談する前に逃げてしまうのが私のダメなところである。
でもそのサークルで知り合った先輩方と、バンドを組むことができた。
全曲オリジナルで、多い時は月に3~4本のライブをこなした。
それなりに集客もできていたし、楽曲の評判も良かった。
「このバンドならプロ目指せるかも?」と思うこともあったが、本気にはなれなかった。
「失敗したら人生終わり」って強く思っていたからだ。
結局また流されて、就職の道を選んだ。
組織が苦手なのに。
安全な道を選んだはずなのに⋯⋯
大学卒業と同時に、バンドは解散した。
私はすっかり仕事人間になり、ギターもほとんど弾かなくなった。
何度かライブをする機会もあったが、その時限りのコピーバンドである。
最後にライブをしたのは2012年。
GOING STEADYのコピーバンドだ。
それからまったくギターを弾くことはなくなり、2017年には会社を辞めた。
うつ病で働けなくなってしまったのだ。
「失敗したら人生終わり」と思って、安全な道を選んだはずなのに、人生が終わりかけた。
こんなことになるなら、ずっと音楽をやっていれば良かった。
音楽で失敗して人生終わる方が良かった。
これからが本当の自分の人生
うつ病は良くなったり悪くなったりを、三度繰り返した。
そしてようやく、社会への未練を断ち切ることができた。
私にとって、普通に生きるということは非常に難しい。
難しいのに、普通になろうとしてもがいていた。
社会から外れるのが怖かったのだ。
でも三度目の正直でダメだったのだから、さすがにもう開き直るしかない。
こうして開けっぴろげに経歴を語れるのも、社会の目を気にする必要がなくなったからである。
幸いなことに、私の人生はまだ終わっていない。
むしろこれからが、本当の自分の人生の始まりであろう。
かつてなんとなく、「いいな」と思っていた音楽。
本心ではなんとなくじゃなくて、「これしかない!」と思っていた。
もうその気持ちにふたをする必要はない。
13年ぶりに音楽活動を再開
2024年末、友人からバンドに誘われた。
2025年1月25日にライブがあると言う。
もはやギターに弦すら張ってなく、まったく自信はなかった。
でも内輪なイベントで、ゆるい感じで良さそうだったので、やってみることにした。
すると完全に火が付いた。
ライブが楽し過ぎて仕方がなかったのである。
バンド活動だけでは飽き足らず、2025年7月からはソロで弾き語りまで始めた。
今までもっぱらエレキギターを弾いてきて、アコギは下手くそだし、ボーカルなんてまったくやってこなかったのに⋯⋯!
41歳からのリスタート。
自分が主役の舞台を楽しみます♪

